2022年3月19日土曜日

2022 INDYCAR3月ニュース 3月19日:第34回モータースポーツ殿堂セレモニー その2

                         

今年のインダクティとすでに殿堂入りしている出席者ほぼ全員が壇上に Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

バイクウィーク真っ最中のデイトナで
第34回MSHF殿堂入会者セレモニー開催

 フロリダ州オーランドウの少し北の町レイク・メアリーに滞在中。3月7日の朝、ガソリンの値段が前日より1USガロンあたり20セントも高くなっていた。

この日のガソリン価格。レギュラーが4ドル20セントでハイ・オクタンのスーパーは4ドル90。軽油は5ドル   OMG! Photo:Masahiko Amano  
 そんな中、第34回目を迎えたモータースポーツ・ホール・オヴ・フェイム・オヴ・アメリカの殿堂入会者セレモニーが開催された。バイク・ウィークスの真っ只中のデイトナ・ビーチで。全米から集まるバイクで道路が混雑、混乱してやしないかと恐れていたが、意外にそんなことはなかった。排気音大きめのバイクの数が普段より明らかに多いだけで。

前日はレセプション・パーティーで盾の除幕式
そしてそのあとはオークション!


展示車の多くを移動して作られた最初の晩のセレモニー会場。手前の青いマシンはミッキー・トンプソンがランド・スピード・レコード挑戦用に作り、自ら走らせた”チャレンジャー1”。スーパーチャージドV8を4基搭載で1960年にアメリカ人として初めて400mphオーヴァーを記録した Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 月曜日の夜、殿堂入りメンバーの顔を彫刻した盾の除幕式が行われた。会場はデイトナ・インターナショナル・スピードウェイの敷地内にあるモータースポーツ・ホール・オヴ・フェイム・オヴ・アメリカのミュージアム。カジュアルなカクテル・パーティーが午後7時にスタートし、”ご歓談ください”の時間が延々2時間近く続いた。集まった人たちは、”いつ始まるの?”などという心配などしないでおしゃべりを堪能していた。

1日目のセレモニーではオークションも行われ、ジャック・ラウシュが実際に被った帽子は800ドルで落札された Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 セレモニーの後にはオークションが開かれた。今年の殿堂入りメンバーのひとりであるジャック・ラウシュ(NHRA、スポーツカー、NASCARでタイトルを獲得したエンジン・ビルダー兼チーム・オーナー)が実際に被っていた帽子がまずは登場した。つば付きの帽子は彼のトレードマーク。ラウシュがフォードのスポーツカー・チームを率いていた80〜90年代にライヴァルのシヴォレー・チームで走っていたトミー・ケンドールが手を挙げたが、その帽子を落としたのは彼より高い800ドルをつけた御仁だった。

NASCAR伝説のレースの逸品も登場!

こちらはオークションではなく、ミュージアムのエリオ・カストロネヴェスの展示ブース。インディ500を制した時のレーシングスーツ(2002年のと2021年のもの)、ヘルメット、シューズなどが陳列されている Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

  今回のオークションの目玉は、NASCARのストックカー・レースが初めて全米にライヴ放映された1979年のデイトナ500でドニー・アリソンが着ていたレーシング・スーツだった。彼はこのレースで優勝していない。勝利目前まで行ったが、アタックしてきたケイル・ヤーボローと最終ラップのバックストレッチでクラッシュした。二人はマシンを降りるやコースサイドで殴り合いのケンカを始め、その映像は全米にテレビで流された。NASCARを一躍全国区の人気に押し上げたとも評されるケンカの際にドニーの着ていたスーツは1,800ドルで落札された。

火曜日、豪華な顔ぶれが集い午後5時から式典が開幕!
7時からディナー、そしてセレモニーは8時から


 3月8日。デイトナ・ビーチ・ショアーズの街角で少人数人だが“ウクライナに平和を”というプラカードを掲げている人たちがいた。
 第34回目の殿堂入り式典の本番の日がきた。ビーチ沿いのリゾート・ホテルで夕方5時半からカクテル・タイムは始まった。前日より有名人が一挙に増えた。ロジャー・ペンスキー、チップ・ガナッシ、2月のデイトナ500でカップ戦デビューにして優勝を飾ったオースティン・シンドリック、二輪のワールド・チャンピオンのケヴィン・シュワンツ、NASCARチャンピオンのラスティ・ウォレスなどなど。7時からディナーが供され、8時前からセレモニーは始まった。このプレゼンテーションはトヨタ・レーシングがメイン・スポンサーで、他にもファイアストン、デイトナ・インターナショナル・スピードウェイ、シヴォレー、ホンダ、フォード、インディアナポリス・モーター・スピードウェイ、グッドイヤーなどが協賛。アメリカではモータースポーツの歴史が大切にされている。

今回のインダクティーの最後にスピーチしたエリオ・カストロネヴェス。インディー500最多タイの4勝に加えて、インディカーで31勝、ポールポジション獲得50回、IMSAのスポーツ・カー最高峰カテゴリーでのタイトル獲得、デイトナ24時間で昨年と今年の2年連続優勝という輝かしいキャリアで殿堂入りした彼のスピーチは“感謝”をキーワードにしたとても熱いものだった。エリオはまだ現役。ロジャー・ペンスキーが言った通り、彼には今年の5月にインディ500での単独の史上最多勝=5勝目を実現する可能性がある Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 ピーター・ブロック(スポーツ・カー)、エリオ・カストロネヴェス(オープン・ホイール)、ハーリー&デイヴィッドソン(歴史)、ディック・ラヘイ(ドラッグ・レース)、バンジョー・マシューズ(ビジネス)、デニース・マクラゲッジ(一般)、レイモンド・パークス(歴史)、ジャック・ラウシュ(ストック・カー)、ヴァンス&ハインズ(二輪)。これが今年の殿堂入りメンバーだ。

式典が終わってからエリオと記念撮影。ブラック・タイなんて機会、滅多にないってことで Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

  ラヘイ、パークス、マクラゲッジ、マシューズは故人。二輪メーカーを起こしたウィリアム・ハーリーとアーサー、ウォルター、ウィリアムのデイヴィッドソン3兄弟ももちろん同様。彼らは家族が会場に招かれていた。

ピート・ブロック夫人のスピーチに感動

 殿堂入りする人と関わりの深い人物が人物紹介やエピソードを話し、その後に殿堂メンバーがスピーチするスタイル。みんなの話が興味深く素晴らしいものだった。その中からピート・ブロックの奥さまの話をここに紹介する。

自らのディスプレイの前で記念撮影するピート・ブロックと奥方。彼の代表作であるシェルビー・コブラ・デイトナ・クーペのスケッチも見える Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 「ピーターに会いに来る多くの人たちが、”あなたによって人生が大きく変わりました”と言います。彼の作ったクルマや、彼の話が人々に影響を与えているのです。ピーターはそういう人物です。今から15年ほど前に、とある人から送られてきた手紙を今日は読みます。”ブロックさん、あなたは私のことを覚えていないことでしょう。あなたの住所をインターネットで見つけたので手紙を書きました。5年前、私は飛行機であなたの隣りに座ったんです。あなたがピート・ブロックだと気付き、私は話をし始めました。本当に気さくに話のできる人で、私は当時個人的に抱えていた問題まで口にしました。息子が悪い友人とつきあい、ドラッグに溺れて行きかけていたんです。学校の成績も出席率も下がる一方。彼の将来がおおいに心配されました。何とか状況を変えようと色々試しましたが、どれも効果は得られませんでした。この話を聞いたブロックさんは、“プロジェクト・カーがいい”と言いました。“クルマを1台見つけ、親子で一緒に仕上げるプロジェクトを始めたらいい。完成したらそれは息子さんのものになることとして”という提案でした。私たちはそれにトライしました。最初は戸惑い気味だった息子も、しばらくすると興味を持ち、父と子が一緒になって油で手を汚しながら働くようになりました。ドラッグなど馬鹿馬鹿しいと考えるようになった息子は高校を良い成績で卒業し、大学への奨学金まで獲得しました。あの日、私を飛行機でブロックさんの隣りに座らせてくれたのは神様に違いありません”」。
 ブロック自身はこの後のスピーチで、「殿堂に迎え入れられたことに感激している」と涙ぐみ、「こうしてずっと頑張ってこられたのはすべて妻のおかげだ」と言った。会場の女性たちから声が漏れ、大きな拍手が沸き起こった。


改めて振り返るピート・ブロックの偉業と
思い出される30年ほど前の縁


ミュージアム入口に展示されたBREダッツン2台。レストアされたらしく、かなり良いコンディション。左の510の日本名はブルーバードで、右の240Zは日本だとフェアレディー240Zと呼ばれていたPhoto:Masahiko Amano クリックして拡大

 まだ学生だった19歳でジェネラル・モーターズのデザイン部門に入り、コルヴェット・スティング・レイのベース・デザインを作成したブロック。その後に彼はキャロル・シェルビーに雇われ、1965年のFIA GTチャンピオンシップで王者となるシェルビー・デイトナをデザインした。そして自分の会社、ブロック・レーシング・エンタープライゼス(BRE)を設立し、デトマゾ、トライアンフ、日野(サムライ)、トヨタ(2000GTのエンジンを積んだル・マン用マシンはプロジェクト途中でストップ)、ニッサン(アメリカでダッツン2000、240Z、510のレース・ヴァージョンを製作)を手がけた。

コースサイドでお互いレンズを構えていたピートの晴れの舞台で再会! Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 こんな凄いキャリアの持ち主が1990年代の初めにはIMSAシリーズにカメラマンとして姿を見せていた。スポーツ・カーの世界にいがちな、お金持ちのエントラントの知り合いのお金持ちで写真が趣味……といった印象の人だったこともあって、気軽にピートと呼んでいたが、彼がBREの創始者と同一人物であることを当時の私は暫く知らずにいた。知っていたら日野、トヨタ、ニッサンとの仕事について色々聞くことだってできたのに……。それは今からでも遅くはないか。85歳になったというピートだが、体重も絞ったのか、かなり元気そうだったので。
以上

0 件のコメント:

コメントを投稿