2021年1月20日水曜日

2021 INDYCARレポート 1月11日:2021年のインディーカーは4月に開幕か

 セイント・ピーターズバーグがまたもリスケに
このままいくと開幕戦は4月9~11日のアラバマか?

 2021年になりました。今年もよろしくお願いします。
 先日、東京などに緊急事態宣言が出されました。アメリカのパンデミックは引き続き世界で最も酷くて、感染者は2,220万人以上、死者も37万人以上になっています。そんな状況から、カリフォルニア州ロング・ビーチでのレースは恒例の4月から9月にスケジュールが移されました。そして、もう1レースの予定変更が発表されました。開幕戦として行われる予定になっていたフロリダ州セイント・ピーターズバーグでのレースが4月23〜25日にリスケジュールされたのです。

 またしても……。これでセイント・ピーターズバーグのストリート・レースは2年連続で開幕戦としてスケジュールされながら、開幕戦としての開催ではなくなってしまう可能性が強まりました。今のままで行くと、4月9〜11日に行われる予定のアラバマ州バーバー・モータースポーツ・パークでのレースが2021年の開幕戦になります。もちろん、そちらのレースにもスケジュール変更の可能性はあります。昨年、バーミンガムでのレースはパンデミックで開催されませんでしたし。メディアに開幕戦から現場での取材許可が降りるのか……も心配です。

パット・パトリック御大が死去

 新年になってから、かつての名チーム・オーナー、パット・パトリックが亡くなりました。91歳でした。
 UE.パット・パトリックといえば、Championship Auto Racing Teams,
Inc.(=CART)設立の中心メンバーです。1979年、インディアナポリスとUSACのシリーズ運営に反対し、ロジャー・ペンスキーとCARTを興したのが彼でした。トップ・カテゴリーであるインディーカーへの登竜門=インディー・ライツを設立したのもパトリックでしたね。
 彼のチームはインディー500で3勝しています。それらは1973年と1982年(いずれもドライヴァーはゴードン・ジョンコック)、そして1989年でした。3勝目のドライヴァーは元F1チャンピオンのエマーソン・フィッティパルディ。”札束を積み上げた中にマールボロ・カラーのマシン、ボーグ・ウォーナー・トロフィー、そして微笑むエモ”という写真、見たことないですか?
 パトリック・レーシングはシリーズ・チャンピオンに2回なっています。1976年=ジョンコックと、1989年=フィッティイパルディです。89年はチップ・ガナッシがチームの共同オーナーになってましたね。1990年に彼は自分のチームをスタートさせるワケですが……。
 パトリックはシャシー・コンストラクターでもありました。彼の作ったワイルド・キャットは、今のところインディー500で優勝(1982年)した最後のアメリカン・メイド・シャシーとなっています。1989年のウィニング・マシンはイギリス製のペンスキー・シャシーでした。

思い出されるパトリックの仁義なき荒業……

 パトリックと聞いて私が思い出す話は二つ。
 その1は1989年、シヴォレー・イルモアが常勝エンジンだった中でアルファ・ロメオと契約したパトリック・レーシングがシヴォレー・エンジンをイタリアに送ってしまったこと。「これと同じように作ればいい」ってなもんですが、シヴォレーとイルモアは激昂。当たり前ですよね、ユーザーチームでもエンジンの中を見ることを許していなかった、リースのエンジン=秘密の塊をライヴァル・メーカーに送られちゃったんですから。しかもそのエンジン、バラバラに分解された状態でイルモアに返却されたって話です。
 そんなパトリックの荒技があったにも関わらず、メタノール燃焼エンジンのノウハウを持っていなかったためか、アルファ・ロメオはとうとう戦闘力のあるエンジンを作ることができず、3シーズン弱の参戦でシリーズから撤退しました。一度も表彰台に上ることなく……。するとパトリックは1992年シーズンに向け、またイルモアにエンジンを供給してくれるよう頼んだのですが、世間は実績あるオーナーに対しても甘くはなく、キッパリ断られちゃいました。その結果、彼はチームの継続を断念。翌年に向けて新たに契約していたドライヴァー=ボビー・レイホール(と彼のパートナーであるカール・ホーガン)にチームを売却しました。昨年佐藤琢磨をインディー500で優勝させたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングは、こんな事情で生まれたのでした。

ファ
イアストンの今日のインディーの活躍の契機に

 二つ目の話は1994年、パトリックがファイアストン・タイヤのテスト・チームに選ばれたことでした。インディーカー・レースへの復帰のチャンスを探してたんですね、パトリック御大は。翌1995年にファイアストンとともに参戦を始めた彼らは、すぐさまスコット・プルエットを優勝させ、ファイアストン・タイヤはどんどんとユーザーを増やして行き、勝利を重ね、ついにはグッドイヤーをインディーカーから撤退させちゃいました。
 パトリック・レーシングはプルエットの後もエイドリアン・フェルナンデスを起用して優勝を重ねましたが、CARTでの活動は2003年までで終了。インディー・レーシング・リーグ(IRL)での2004年シーズンを終え、チームは閉じられました。
 ファイアストンの活躍はパトリック・レーシングあってのもの。今や彼らは20年以上もインディーカー・シリーズに出場する全車にハイパフォーマンスで信頼性の高いタイヤを供給し続けています。
 ファイアストンより1年前にインディーカー参戦を始めたホンダにもパトリックはアプローチしたようです。しかし、アルファ・ロメオの一件があったばかりだったため、ホンダは彼らとではなく、レイホール・ホーガン・レーシングとテスト契約を結び、1994年に実戦デビューを果たしました。

以上

1 件のコメント:

  1. そのRLLRも創設30周年とか。

    だからこそ、カーナンバー30の琢磨選手には今季頑張ってもらわないとね。

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