2021年6月7日月曜日

2021 INDYCAR ニュース:訃報 アンドレ・リベイロ

アンドレ・リベイロ 1966‐2021 Photo:IndyCar on NBC クリックして拡大

   少し前の話になるが、5月22日、1990年代にインディーカーで活躍したアンドレ・リベイロが亡くなった。

 もう25年以上前の1993年、PPG/CARTインディーカー・ワールド・シリーズでは現役F1チャンピオンのナイジェル・マンセル(ニューマン・ハース・レーシング)が大暴れしてタイトルを獲得し、大盛況だった。
 その翌年という、とても良いタイミングでホンダのCARTシリーズ参戦は始まった。ホンダがパートナーに選んだのは、レイホール・ホーガン・レーシング。エースはシリーズ・チャンピオンに3回輝き、インディー500でも1勝しているオーナー兼ドライヴァーのボビー・レイホールで、2台目には若手が起用された。
 しかし、初年度のホンダは大苦戦。初挑戦のインディー500でのホンダは大きな屈辱を味わうこととなった。予選通過に苦しんだレイホールたちが、シヴォレー・エンジンにスイッチして決勝を目指すこととなったのだった。ホンダは予選の途中までで戦いを打ち切り、ガレージを去らねばならなかった。レイホールのチームは前年に予選落ちしていたため、2年連続予選不通過は絶対に避けたい事情があってシヴォレー・エンジン搭載マシンをペンスキーからレンタルした。



 ホンダとレイホール・ホーガンは1シーズン限りで決別。代わりにホンダ・チームとなったのは、インディー・ライツでチャンピオン・チームになったばかりのタスマン・モータースポーツ・グループで、フル・シーズンは1台体制と控え目なものになった。ドライヴァーはブラジル出身のアンドレ・リベイロ。1994年のインディー・ライツでデビュー・イヤーながら4勝してランキング2位になった男だ。名のあるチームとドライヴァーとのコンビネーションから一転、ホンダは無名チーム、そしてルーキー・ドライヴァーと出直すことになった。

 2年目のホンダ・エンジンは大幅に戦闘力を上げていた。インディー500にだけリベイロのチームメイトとして出場したスコット・グッドイヤーが予選で2位に食い込み、レースでは優勝目前まで行った。勝てなかったのはリスタートのターン4でペース・カーを抜いしまうという、初優勝を目前にした浮き足立ったドライヴァーによる信じられないミスによってだった。

 

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 そこまで実力をアップさせていたホンダ・エンジンは、シーズン後半戦で初優勝を飾った。全長1マイルのショート・オーヴァル=ニュー・ハンプシャー・インターナショナル・スピードウェイ(現在位のニュー・ハンプシャー・モーター・スピードウェイ)でホンダ+タスマン+リベイロはインディーカーの常識=オーヴァルではシフト・チェンジはしない=を破り、予選アタック中に2速のギヤをアップ&ダウンさせて走行。ポール・ポジションを獲得し、レースでは堂々とリードを続けて優勝へと逃げ切った。オーヴァルでもシフト・チェンジを行なうテクニックは、このレースを機にインディーカーの世界で常識となって行った。

 2位でフィニッシュしたのはマイケル・アンドレッティ(ニューマン・ハース・レーシング)で、3位はアル・アンサーJr.(マールボロ・チーム・ペンスキー)だった。リベイロ初勝利の表彰台は、当時のインディーカーを代表するスター・ドライヴァー2人が彼の横に並ぶものとなった。アンドレッティはフォード、アンサーJr.はシヴォレー、それぞれのナンバー・ワン・チームからの出場でもあった。ホンダのスタッフは、強力なライヴァル2社との戦いを制して掴んだ優勝の喜びを、表彰台を囲みながら噛み締めていた。

 タスマンのチーム・オーナーであるスティーヴ・ホーンは、リベイロ起用の理由を、「レースでライヴァルたちをオーヴァーテイクして来る力に秀でているから」と話していた。「知りたいのはレースの過程。いったい何台を抜いてゴールしたのか。様々に条件の異なるレースの中で、ライヴァルたちと戦い、パスをして順位を上げて来る。そういう力がドライヴァーとして成功するためには必要なんだ」と。履歴として残る予選や決勝の結果も大事だが、レースの中でポジション争いというひとつひとつの局面で勝負し、それらに勝つことを重ねた者だけが上へと上がって行ける。ホーンのセオリー、そして眼力は正しかった。

 リベイロはレースとなれば凄まじい闘志を見せた。それは、いつもホンダのモーターホームで穏やかな笑顔を讃えて談笑している青年と同一人物だと信じられないほどだった。レースの最高峰で勝利し、それを重ねてチャンピオンになる目標の実現に向け、彼は一歩ずつ着実に進んで行っていた。

 1996年、インディーカーのブラジル初進出がなり、リオ・デ・ジャネイロでレースが開催された。終盤に多くのトップ交代劇のあったレースでは、粘り強く戦っていたリベイロが勝者となった。当然のことながら、ブラジル人ドライバーの優勝にサーキットは沸き返った。表彰式でウィナーがブラジル国旗を両手で背中側に纏うように掲げると大歓声で地面が震えた。

 デビュー2年目、キャリア1勝とまだ実績はほとんどなかったというのに、リベイロは母国初開催レースで勝利を挙げるという快挙を成し遂げたのだった。母国や地元のレースで結果を残すのは簡単ではない。普段を遥かに上回るプレッシャーがのしかかるからだ。インディ500のようなビッグ・イヴェントでもそれは同じことだ。そうしたレースで勝つドライヴァーたちを見ていると、彼らが並々ならぬパワーを持っていることを感じさせられる。リベイロもその手のドライヴァーだった。あの小柄な体つきからは想像もつかない、とてつもなく大きなエネルギーを彼は蓄えて行っていたのだ。

 今年のインディー500開催期間中、リベイロは亡くなった。タスマンからチーム・ペンスキーに移籍して2シーズンを戦った彼は、ロジャー・ペンスキーと協力してブラジルにアメリカ流の自動車販売網をスタートさせ、成功していた。

 訃報の流れた翌日、インディーのパドックで私はエリオ・カストロネヴェスに会い、リベイロのことを尋ねた。そして、驚くようなストーリーを聞くことになった。

 「アンドレがガンだというのは誰も知らなかったんだ。もしかしたら、彼は家族にも隠していたのかもしれない。奥さんや娘たちも知らなかった可能性があるんだ。知っていたのは、彼の実兄でビジネス・パートナーのリンカーンだけだったかもしれない。アンドレはまったく普通に生活していたというんだよ。毎日仕事もしていた。入院をしていたわけじゃないんだ。
 彼にはレース時代からずっと連絡を取り合っているカメラマンがいた。その人が数日前に電話で話をしたんだが、アンドレはまったく普段通りだったらしい」。

 発見が遅く、もう治らないとわかって、彼は病気を周囲の人々に知らせないことにしたんだと思う。それがどれほどの期間だったのかはわからないが、周囲に知らせずに送る闘病生活には大変な苦痛、そして苦労が伴っただろう。
 55歳という若さで、リベイロはこの世を去った。

 スポンサーのロゴ入りキャップからはみ出したカールした髪、輝く笑顔、トレードマークだったウィンク……当時の彼の姿は、今でも瞼を閉じるとはっきり思い出すことができる。アンドレの冥福を心より祈る。

以上


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1 件のコメント:

  1. リベイロさん、亡くなったんですね。
    1997年にもてぎでインディのテストがあった時にリベイロさんにお守りをプレゼントした思い出があります。
    とても喜んでくれた顔が印象的でした。
    ブラジル人らしく明るくて、ファンに対して律義で紳士的でした。
    ご冥福をお祈りいたします。

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